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●開発 1941年5月25日、ヒトラーはトーチカ(コンクリート製掩蔽壕)および、近未来に遭遇するであろう米英軍の重戦車に対抗するために、ラインメタル・ボルズィク社製の61口径12.8cm加農砲K40を搭載する自走砲の開発を要求した。 これに応じてハウステンベックのヘンシェル社が開発したのが、VK.30.01(H) 12.8cm対戦車自走砲である。 本車のベース車体として用いられたVK.30.01(H)は、1938年9月9日にドイツ陸軍兵器局第6課から出された要求に従ってヘンシェル社が開発した30t級戦車で、後のティーガーI重戦車開発の基礎となった車両である。 VK.30.01(H)の主な諸元は、戦闘重量32t、全長5.81m、全幅3.16m、全高1.85m、乗員5名、装甲厚は車体前面が50mm、側面が30mmで、マイバッハ社製のHL116 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(300hp/3,000rpm)を搭載し、最大速度は路上で35km/hとなっていた。 エンジンは後部配置で、起動輪は前方にあり、ゴム縁付き誘導輪が後部に装備されていた。 転輪と上部支持輪は複列式で、転輪は片側7組がオーバーラップ式に配置され、上部支持輪は片側3組であった。 武装は、クルップ社が設計した全周旋回式砲塔に24口径7.5cm戦車砲、もしくは28口径10.5cm戦車砲を搭載する予定であった。 VK.30.01(H)は、1941〜42年にかけて砲塔未搭載の試作車が7両(4両説もある)製作されたが、1940年5〜6月のフランス戦の戦訓などを考慮した結果、30t級の戦車では十分な装甲を施すことができないという判断から、計画は36t級のVK.36.01に発展したため、VK.30.01計画はキャンセルされてしまった。 このため、VK.30.01(H)が予定されていた砲塔を搭載することはついに無く、完成した試作車は各種の実験用車両として使用された。 ヘンシェル社は、12.8cm加農砲K40を搭載する対戦車自走砲のベース車体として、不要の存在となってしまったこのVK.30.01(H)を流用することにし、設計開発を進めた。 12.8cm対戦車自走砲の車体は、すでに完成していたVK.30.01(H)を改造して使用したとされているが、61口径という長砲身の12.8cm砲を搭載するために車体は延長され、後部形状も変更されており、機関部の配置も違うので、実際は新規に製作されたのではないかと思われる。 そして、デュッセルドルフのラインメタル社で最終組み立てが行われ、1941年8月に早くも2両が完成したが、これ以上の量産はされずに終わっている。 なお、VK.30.01(H)は当初、IV号中戦車の後継戦車として開発されていたためか、この12.8cm対戦車自走砲には「12.8cm砲搭載V号装甲自走車台」という正式名称が与えられている。 また本車は、「デア・シュトゥーレ・エーミール(きかん坊のエーミール)」という俗称で呼ばれていたことが知られているが、これが2両ともそう呼ばれていたものか、個別に与えられたニックネームの内の1つなのかは判然としない。 VK.30.01(H) 12.8cm対戦車自走砲の主な諸元は、戦闘重量35t、全長9.80m、車体長7.20m、全幅3.17m、全高2.67m、最低地上高0.28m、路上最大速度25km/h、登板力24度、乗員5名であったとされているが、寸法は資料によって多少異なっている。 本車は2両共に、第3機甲師団傘下の(独立)第521戦車駆逐大隊第3中隊に配備された。 この部隊には以前、2両のみ製作されたIV号中戦車ベースの自走砲、IV号a型10.5cm対戦車自走砲が配備されていたが、2両とも戦闘で失われたため、その後継として本車が配備されたものと思われる。 第521戦車駆逐大隊は1942年夏、ブラウ作戦に参加してウクライナを南下しているが、VK.30.01(H) 12.8cm対戦車自走砲はかなりの戦果があったようで、砲身に多数のキルマークを付けた写真が確認できる。 しかし、この後スターリングラード戦に投入されて、1943年1月に第521戦車駆逐大隊は全滅し、VK.30.01(H) 12.8cm対戦車自走砲も失われた。 この内、少なくとも1両はソ連軍に捕獲され、調査を行った後にモスクワの捕獲兵器展示会で展示された。 この捕獲されたVK.30.01(H) 12.8cm対戦車自走砲は、現在、クビンカの兵器試験所博物館に保管されている。 |
●構造 VK.30.01(H) 12.8cm対戦車自走砲は、VK.30.01(H) の車体上部後半にオープン・トップ式の固定戦闘室を設けており、この戦闘室の前部に12.8cm加農砲K40を限定旋回式に搭載していた。 砲の旋回角は左右各7度ずつで、俯仰角は−15〜+10度であった。 仰角が+10度までしか取れないのは、砲尾の下にエンジンのカバーがあったためで、野砲として長距離射撃を行うのは無理であった。 戦闘室前方の車体上面には左右に四角い装甲ボックスが設けられており、左側のボックスは操縦室、右側のボックスは操縦室のダミーで、ダミー・ボックスの方は雑具箱として使用されたという。 車体は、戦闘室内の作業スペースを確保するために、原型のVK.30.01(H)よりも後部に延長されており、装甲厚はVK.30.01(H)と同じという説もあるが、前面40mm、側面30mm、後面20mmとする資料もある。 左右のフェンダは、VK.30.01(H)のものをそのまま延長した形になっていた。 左右側面の1番目と2番目の上部支持輪の間には、VK.30.01(H)と同様にそれぞれ脱出用ハッチが設けられていたが、形状は違っていた。 転輪(直径700mm)およびトーションバー・サスペンションは、車体延長に伴って1組追加されて片側8組となり、誘導輪位置も後ろに移動している(上部支持輪はそのまま)。 その結果、履帯の履板(幅520mm、ピッチ130mm)枚数は片側85枚に増え、接地長が4.75mに延びた。 これによりステアリング時の負荷が増え、ギアの減速比を上げたため、路上最大速度は25km/hにまで低下した。 エンジンはVK.30.01(H)と同型だが、特別仕様のHL116S 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(300hp/3,300rpm)を、戦闘室中央のちょうど砲尾の下に搭載していた。 エンジンは四角いカバーで覆われていたが、後部はカットされて通気グリルが装備されていた。 このエンジンは、ラジエイタ装置の上に設置されたために、冷却ファンのVベルトが新設計され、その通気口は戦闘室後部両側に導くように新設された。 エンジン用排気管は後部に導かれ、車体後部に取り付けられたVK.30.01(H)と同型のマフラーに接続されていた。 変速機は、VK.30.01(H)ではマイバッハ社製のSGR328.145変速機(前進10段/後進1段)を搭載していたが、本車ではZF社製のSSG77変速機(前進6段/後進1段)に変更されていた。 戦闘室の装甲厚は、前面50mm、側面30mm、後/上面15mmとする説と、前面30mm、側/後/上面15mmとする説もある。 また、上部周囲は内側に装甲板で縁が取り付けられていた。 戦闘室の幅は、車体の幅と同じになっていた。 戦闘室の後部は、ラジエイタの通気ダクトを両サイドに設けたため少々変わった形になっており、中央に左開き式の乗降用ドアとステップが設けられていた。 車体上面前部の装甲板はVK.30.01(H)のものがそのまま使われているようで、操縦室とダミーの装甲ボックスも本来の位置に構成されていた。 操縦室ボックスの上面には後ろ開き式の四角い操縦手用ハッチが設けられており、前面に装甲ヴィジョン・ヴァイザと双眼式ペリスコープ孔、左側面にヴィジョン・ブロックが装備されていた。 反対側のダミー・ボックスには、ヴィジョン・ヴァイザ等は設けられていなかった。 このダミー・ボックスは、VK.30.01(H) 12.8cm対戦車自走砲の第1号車には装備されておらず(製造時にはあったものと思われる)、第2号車のみに取り付けられたとされているが、元々点付け溶接の薄板製だったので、第2号車も戦場で早々にこれを失ってしまっており、このボックスのみを頼りに両者を見分けることはできない。 戦闘室の周囲には、カンヴァス・カバー取り付け用のループ金具があるくらいで、他には装備品は取り付けられていない。 ただし、実戦配備後は戦闘室の前面左側に予備履帯が取り付けられていた。 また、戦闘室後部右側のラジエイタ用通気ダクトの後部には、発煙筒ラックがカバー付きで装備されていた。 戦闘室内部では、まず後部装甲板内側の乗降用ハッチの上にエンジン始動用のクランクシャフトがあり、その左右には9mm機関短銃MP40が1挺、その上に弾倉(32発入り)が6個、手榴弾3個がそれぞれ2対あり、左側には下部に消火器があった。 車内装備としてこの他、7.92mm機関銃MG34が1挺あったとされているが、その収納場所は不明である。 戦闘室内側の側面後部には、左右に弾頭ラックが15発分(左側8発、右側7発)あり、その前方には薬莢の収納ボックスが13発分(左側6発、右側7発)取り付けられていた。 本車の12.8cm砲弾の携行数は18発とされているが、残りの弾薬収納箇所は不明である。 戦闘室の床には木製のスノコが敷かれており、砲の後方にはスノコに埋め込まれる形でトラヴェリング・クランプが装備されていた。 また、床の左側には砲弾を砲尾に押し込むためのラマーが装備されていた。 12.8cm加農砲K40の砲架は、戦闘室前方の1段高くなった部分に取り付けられており、砲架を挟んで左側に砲手席、右側に車長席が設けられていた。 この座席よりも前の部分には天井があり、その左側には照準機用の開口部、右側には常設の観測ペリスコープ用円形ハッチが設けられていた。 本車はFu.5無線機を搭載していたとされているが、その搭載位置は不明である。 もっとも、戦闘室の右側上部前方にアンテナの基部が取り付けられていたので、無線機は戦闘室内の右側前方にあったものと思われる。 車体の前面は極めてシンプルで、当初は何も無かったが、部隊配備後に予備履帯が取り付けられた。 前部の牽引具は、ロッドを曲げたものを車体と起動輪基部用の張り出し部に溶接し、そこにフックを引っ掛けるようになっていた。 後部の牽引具は、アイプレートを車体の左右側面に溶接していた。 左側フェンダの上には、前から円形ライト(これはボックス型も確認できるので、第1号車と第2号車で違っていたものと思われる)、ノテックライト、ジャッキ台、カナテコ、ハンマー、ワイアカッター、オノ、スコップ、消火器、テールライトが順に装備されていた。 右側フェンダの上には、前から円形ライト(またはボックス型ライト)、ホーン、ジャッキ台、クリーニングロッド、テールライトが順に装備されていた。 主砲の12.8cm加農砲K40は、1936年からラインメタル社がゲレート40の名称で開発を進めていた12.8cm高射砲が原型である。 この12.8cm高射砲は後にFlaK40として量産されたのだが、1939年に、本砲をベースとした野戦加農砲を開発することが要求され、この結果誕生したのがK40というわけである。 なお、K40は野戦砲架型が生産された記録は無く、本車に搭載された2門のみが製作されたらしい。 原型が高射砲であるため、K40は61口径という長砲身だが、これは、後に登場するヤークトティーガー重駆逐戦車に搭載された12.8cm対戦車砲PaK44の55口径を大きく上回っていた。 K40の砲身先端には二重作動式の砲口制退機が取り付けられており、照準機はSfl.ZF.1が用いられた。 砲弾は分離薬莢式で、弾頭重量26.4kgのPz.Gr.(徹甲弾)を用いた場合、砲口初速880m/秒、射距離100mで201mm、射距離2,000mでも120mmの均質圧延装甲板(傾斜角0度)を貫徹することが可能であった。 K40の野戦砲架型は生産されていないので、Sp.Gr.(榴弾)を用いた場合のデータは無い。 この砲は発砲時の反動が強かったため、VK.30.01(H) 12.8cm対戦車自走砲の完成後に行われた射撃試験において、発砲時の反動による車体の上下動で照準が不可能になることが判明し、この対策として、最後部転輪用のトーションバーがより強固なものに交換された。 |
<VK.30.01(H) 12.8cm対戦車自走砲> 全長: 9.80m 車体長: 7.20m 全幅: 3.17m 全高: 2.67m 全備重量: 35.0t 乗員: 5名 エンジン: マイバッハHL116S 直列6気筒液冷ガソリン 最大出力: 300hp/3,300rpm 最大速度: 25km/h 航続距離: 武装: 61口径12.8cm加農砲K40×1 (18発) 7.92mm機関銃MG34×1 装甲厚: 15〜50mm |
<参考文献> ・「グランドパワー2000年5月号 ドイツ重対戦車自走砲の開発/構造/戦歴」 佐藤光一 著 デルタ出版 ・「世界の軍用車両(1) 装軌式自走砲:1917〜1945」 デルタ出版 ・「ティーガーI (3) 虎のメカニズム」 デルタ出版 ・「第2次大戦ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.1 AFV:1939〜43」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ドイツ試作軍用車両」 ガリレオ出版 ・「ジャーマン タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「ティーガー戦車」 W.J.シュピールベルガー 著 大日本絵画 ・「ビジュアルガイド WWII戦車(2) 東部戦線」 川畑英毅 著 コーエー ・「ピクトリアル 第2次大戦ドイツ自走砲」 アルゴノート社 ・「ピクトリアル パンター/ティーガー」 アルゴノート社 ・「ピクトリアル ティーガー戦車」 アルゴノート社 ・「異形戦車ものしり大百科」 斎木伸生 著 光人社 ・「ドイツ戦車発達史」 斎木伸生 著 光人社 |