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1934年5月に、それまでの主力戦車であったMk.II中戦車の発展型であるMk.III(A6)中戦車シリーズの量産が、経費高騰のため、わずか3両をもって中止されることが決定された。 また並行して、王立造兵廠の手によって、A7中戦車およびA8中戦車といった車両が開発されていたが、これは全く試作の域を出なかった。 A6中戦車シリーズの開発中止が決定される以前にヴィカーズ・アームストロング社では、機械化局長であったサー・ジョン・カーデンが先頭に立って、新しい車両の開発が開始されている。 新しい車両の開発のコンセプトは、基本的なレイアウトは前作のA6中戦車シリーズを踏襲しつつも、より軽量、より安価にまとめ上げることであった。 一方、ユーザであった王立戦車軍団側では、歩兵に対する近接支援、並びに、機動戦闘両方に使用可能な中戦車を求めていた。 しかし、戦争局側では汎用兵器に対する考え方を改め、現在の技術力では近接支援と機動戦闘の両方を両立することは難しく、2つの異なった目的に対する専用の戦車を開発した方が、より現実的であるとする意見が占めるようになってきた。 すなわち、歩兵部隊用と騎兵部隊用の戦闘車両である。 これらの流れを汲んだカーデンは、新たに設計する戦車に少し手を加えることによって、簡単に別の戦車へ変更できるように工夫しておいた。 これらの戦車が、後にA9巡航戦車およびA10巡航戦車に発展することになる。 A9巡航戦車の開発は、Mk.II中戦車の量産に陰りが見えてくる以前の、1934年に入ってすぐにスタートした。 最初の試作車であるA9E1が完成したのは、1936年4月のことであった。 A9E1は当初、製造中止となったMk.III中戦車の後継モデルということで、中戦車として開発が開始されており、前作であるMk.III中戦車の武装レイアウトをそのまま踏襲していた。 すなわち、全周旋回式の主砲塔を1基持ち、車体前端左右には、副砲塔に収めた7.7mmヴィカーズ液冷重機関銃を2挺装備するというものであった。 懸架装置は、スローモーション・サスペンションと呼ばれるもので、前作Mk.III中戦車のものとは異なり、全く新たに作り起こされたもので、機能的に洗練されたものになった。 基本的には、カーデン・ロイド豆戦車系列の拡大版といえるが、Mk.III中戦車のように車体側面に転輪用の支持架を設け、支持架の周囲に小さな転輪を数多く装備するといったものから、より近代的なものにはなった。 また搭載エンジンは、前作Mk.III中戦車の製作費高騰の反省から、市販されているエンジンを使用するということが決定され、最初の試作車A9E1には、ロウルズロイス社製のファントムII 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力120hp)が装備されたが、後に、AEC社製のバス用ディーゼル・エンジンをガソリン・エンジンに改造した、A179 直列6気筒液冷ガソリン・エンジン(出力150hp)に換装されている。 駆動方式はリア・ドライブで、スプロケット・ギアは車体後端に配置されていた。 A9オリジナルの主武装は、15ポンド臼砲または3ポンド臼砲のいずれかを選択できるようになっていたが、軍当局から1934年11月に、戦闘戦車として使用するため2ポンド戦車砲の装備を求められ、これを装備することとなっている。 ただ、この2ポンド戦車砲は徹甲弾しか用意されておらず、榴弾が発射できなかったため、3.7インチ榴弾砲を搭載した型式も別に製作されることとなった。 これは、主武装が異なるだけで、その他は2ポンド戦車砲搭載版と同じである。 この3.7インチ榴弾砲搭載版A9は、「近接支援」(Close Support)の頭文字を採ってCSと呼ばれた。 CS仕様は、発煙弾や高性能榴弾が発射可能であったが、徹甲弾は用意されていなかった。 また、A9は最大装甲厚を14mmに抑え、機動力を重視した設計となっていた。 これらの要求を採り入れて、A9E1は1936年4月に完成したが、設計者であるサー・ジョン・カーデンは、1935年12月に航空機事故によって亡くなっており、A9のトライアルを目にすることはできなかった。 1936年になると、戦車に対する区分変更が実施され、新たに「巡航戦車」と「歩兵戦車」という2つのカテゴリーが設けられている。 1937年6月からは、前述のA7E3巡航戦車やA10巡航戦車と共に、A9E1巡航戦車の軍によるトライアルが開始された。 このトライアルではA9E1巡航戦車は、A6中戦車並みの路上最大速度40km/hを発揮したが、最大速度を出すと車体の動揺が激しく、極端な場合には履帯が外れてしまうようなサスペンションの欠陥を指摘されている。 これらの問題を抱え込んだまま1937年8月には、A9E1巡航戦車は「Mk.I巡航戦車」として制式採用され、最初の量産分50両がヴィカーズ社に対して発注されている。 Mk.I巡航戦車は、合計125両の発注を受けているが、最初の50両は前述のようにヴィカーズ社で生産され、残りの75両はベルファストのハーランド&ウルフ社によって生産されている。 A9巡航戦車は車長用として、砲塔のハッチにヴィカーズ・ジャーラッチ・ペリスコープを装着しており、また砲塔駆動には、イギリス戦車では初めて動力旋回方式(油圧)を採用していた。 これは、ヴィカーズ社の開発した航空機用の動力銃座技術を流用したものであった。 1939年には、巡航戦車の基準装甲厚を30mmとするという訓令が出され、それに基づいてMk.I巡航戦車にも増加装甲が実施されることになったが、Mk.I巡航戦車は構造的に増加装甲を実施するには難しく、防盾部分に申し訳程度に実施されただけに終わっている。 特殊な試作車両として、1940年5月には、ハンプシャーのクライストチャーチでMk.I巡航戦車を使用した潜水実験が実施され、ストア川の潜水横断に成功しており、この種の車両で初めて潜水に成功したイギリス戦車となっている。 この実験に使用されたMk.I巡航戦車は、車体各部をシーリングし、スノーケル・チューブを装備しており、奇しくも、相前後してドイツ軍によって開発された潜水戦車と同じコンセプトのものであった。 だが、戦争局側は、フロートを使用した渡河システムを実施する方針であったため、せっかく成功した実験結果も活かされずに終わっている。 Mk.I巡航戦車が最初に実戦投入されたのは、1940年に大陸へ派遣されていた第1機甲師団で、ダンケルクから撤退してからはイギリス本土で再編制され、再びMk.I巡航戦車を装備し、北アフリカのリビアへ派遣されている。 1941年からの砂漠の戦いでは、第7機甲師団がMk.I巡航戦車を用いて戦っており、第2機甲師団もMk.I巡航戦車を装備して、リビアとギリシャへ派遣されている。 イギリス陸軍の1940年5月の旅団編制では、3個中隊と1個本部中隊をもって1個機甲連隊が編制されており、3個機甲連隊が集まって機甲旅団が編制されていた。 本部中隊は4両の巡航戦車で構成され、各中隊は、3両の巡航戦車で構成された1個小隊4個が集合し、中隊本部小隊を合わせて1個中隊が編制されていた。 通常、2ポンド戦車砲を搭載した巡航戦車で編制されていたが、中隊本部小隊に配属された4両の巡航戦車の内の2両は、3.7インチ榴弾砲を搭載したCS仕様であった。 機甲師団は、1940年の編制では2個機甲旅団を有しており、他に支援グループや工兵隊が付随した。 |
<Mk.I巡航戦車> 全長: 5.791m 全幅: 2.502m 全高: 2.642m 全備重量: 12.577t 乗員: 6名 エンジン: AEC A179 直列6気筒液冷ガソリン 最大出力: 150hp/2,200rpm 最大速度: 40.23km/h 航続距離: 241km 武装: 52口径2ポンド戦車砲×1 (100発) 7.7mmヴィカーズ重機関銃×3 (3,000発) 装甲厚: 4〜14mm |
<Mk.I巡航戦車 CS> 全長: 5.791m 全幅: 2.502m 全高: 2.642m 全備重量: 12.577t 乗員: 6名 エンジン: AEC A179 直列6気筒液冷ガソリン 最大出力: 150hp/2,200rpm 最大速度: 40.23km/h 航続距離: 241km 武装: 15口径3.7インチ榴弾砲×1 (40発) 7.7mmヴィカーズ重機関銃×3 (5,000発) 装甲厚: 4〜14mm |
<参考文献> ・「PANZER2006年3月号 各国多砲塔戦車の歴史 イギリス」 柘植優介 著 アルゴノート社 ・「PANZER1999年4月号 初期のイギリス巡航戦車」 白石光 著 アルゴノート社 ・「世界の戦車 1915〜1945」 ピーター・チェンバレン/クリス・エリス 共著 大日本絵画 ・「グランドパワー1999年3月号 イギリス巡航戦車Mk.I〜V」 大村晴 著 デルタ出版 ・「世界の戦車(1) 第1次〜第2次世界大戦編」 デルタ出版 ・「戦車名鑑 1939〜45」 コーエー |