V号駆逐戦車ヤークトパンター





●開発

第2次世界大戦においてドイツは、駆逐戦車という独自のジャンルを生み出し、多くの車種を開発したが、その中でも、大戦後半に主力戦車の座に就いたパンター中戦車をベースにして開発されたヤークトパンター駆逐戦車は、最良の対戦車自走砲として高い評価が与えられている。

ヤークトパンター駆逐戦車の歴史はそう古いものではなく、1942年1月6日付でクルップ社が、兵器局第6課に対して、同社が開発を進めていた71口径8.8cm対戦車砲PaK43を、同じく同社が開発した装甲車台IVc2に搭載する基本案を提出したことに始まる。

この基本案は、図面が残されていないものの、密閉式戦闘室を備えるものであったようで、そのデータは、戦闘重量30t、装甲厚は、車体前面80mm、側面40mm、路上最大速度40km/hというもので、1942年4月2日には、木製のモックアップが兵器局第6課による審査を受けている。
この際、兵器局第6課は、改良を加えることを条件として、IVdの呼称で、同年6月9日付で試作車3両を発注した。

また、この試作車の製作は、子会社であるクルップ・グルゾンヴェルケが行うよう指示されたが、同社は当時、IV号戦車の生産と改良に追われていたため、その妨げにならないように、試作車の製作はドイチュ製鋼所が行うこととされた。

しかし、1942年8月3日付で、車台には、当時開発の最終段階にあったパンター中戦車を流用することが通達され、同年10月15日に軍需省で行われた会議において、以後の開発作業はダイムラー・ベンツ社に移すことが決定された。
クルップ社は、ダイムラー・ベンツ社の設計を支援することになり、また、主砲と砲架の開発を担当した。
この結果、ヤークトパンター駆逐戦車が産声を上げることになる。

翌43年1月5日には、この新型重突撃砲(当時はこのような呼称が与えられていた)に関する基本的なレイアウトがまとめられた。
これによると、車体前面上部の装甲厚は100mm、下部は60mmで、共に傾斜角は55度、戦闘室上面、底部および後部装甲板は30mm厚となっていた。

主砲の防盾はモリブデンを含有しない鋳鋼製で、必要な時にすぐ主砲を交換できるように、車体前面にボルト止めされ、この開口部から変速機の交換も行うこととされた。
試作車の完成は1943年夏頃とされ、生産車の引き渡しは同年12月を予定しており、当初は、開発が進行中だったパンターIIの車台を用いる予定となっていた。

1943年5月24日には、MIAG社がダイムラー・ベンツ社から開発を委任されることになり、MIAG社では、パンターIIの開発経過を見て、車体側面が後方まで1枚装甲板となることから、車重は800kg増加すると計算し、その対策として、車体前面下部の装甲厚を50mmに減らし、さらに、地雷に備えて30mm厚となっていた車体前部の床面を、25mmに減じる等の手を打つこととした。

そして、重量の増加を550kgに留めることが可能と試算して、ダイムラー・ベンツ社に報告書を送った。
この提案は、そのまま生かされることになる。
続いて6月9日付で、基本仕様が決定された。

この時、すでにパンターII計画は棚上げとなっていたため、車体はパンターA型を用いることとされ、乗員は6名(車長、砲手、操縦手、無線手、装填手2名)、装甲厚は、車体前面上部80mm、下部50mm、車体側面50mm、後面および車体下部側面40mm、車体前部床面25mm、戦闘室上面と車体後部床面が16mm。
主砲には71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3を装備して、射角は、左右それぞれ12度ずつ、俯仰角は−8〜+14度で、5カ所のピストル・ポートを備え、車内操作式機関銃は未装備とされていた。

この時期においても前方機関銃が要求されていないことは、まだ、100mmの装甲厚を超える装甲板に適合するボール・マウントが完成していなかったためと思われる。
照準機はSf14Z1aを用い、戦闘室の上面に車長と装填手のハッチをそれぞれ備え、後面には、脱出ハッチを兼ねる主砲交換用ハッチを設け、赤外線暗視装置を搭載する等で、この基本要求に沿って実大モックアップが製作され、1943年10月20日にヒトラーに提示された。

この際には、ティーガーII重戦車、ヤークトティーガー駆逐戦車のモックアップも並べられていたが、ヒトラーは、ことのほかヤークトパンター駆逐戦車に感銘を受けたと伝えられている。
これにわずかに遅れて試作車が完成したが、すでに、パンターA型で前面のボール・マウント式機関銃が装備されていたこともあり、この試作車にもそのまま受け継がれていた。

全体に良好な避弾経始を持ち、戦闘室は車体側面と一体化された、極めてシンプルな形状にまとめられていた。
しかし、巨大な71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3を装備するため、戦闘室は大型化することは避けられず、その全高は2.715mと、IV号駆逐戦車と比べると倍近く大きかったが、これは、パンター中戦車の車体自体が腰高だったこともあり、主砲の俯角を考慮した結果、これ以上低くすることは不可能だったようである。

計画では、装填手が2名搭乗する予定であったが、これは1名に変更されている。
また装甲厚は、車体前面上部80mm、下部50mm、側面45mm、後面40mmで、その戦闘重量は45.5tと、パンターA型より若干重めになったが、機関系等はそのまま流用されている。
この試作車は、1943年12月16日にヒトラーに展示されたが、これを見たヒトラーは、同じ主砲を搭載するティーガーII重戦車よりも優れているとの見解を明らかにし、早速生産を行うように要求した。

開発当初は重突撃砲と呼称されていた本車だが、その後、パンター・シャーシーの戦車駆逐車、戦車駆逐車パンター等の様々な名称で呼ばれ、最終的にヤークトパンターとなったのは、1944年2月27日付の総統命令によるもので、同年4月24日付の機甲兵総監部文書に初めてその名が記載され、以後、この名称で呼ばれるようになった。


●生産

ヤークトパンター駆逐戦車の生産はMIAG社が担当し、1944年1月に、最初の生産車5両が兵器局に引き渡された。
そして、わずかな生産台数で生産が続けられた。
1944年2月は7両、3月は8両、4月は10両、5月は10両−6月の生産台数は、空襲の影響で6両に減少した。
だが、生産遅延の主因は改良作業にあった。

改良の中心は、変速機、操向機および駆動系の部品の強化であった。
1944年6月末までに、合計46両のヤークトパンターが工場から送り出された。
全車合わせても、重駆逐戦車大隊1個の需要を満たすのがやっとという程度に過ぎなかった。
生産計画では、この車両を160両見込んでいたのである。
3個の重駆逐戦車大隊を編成し、さらに、ヤークトパンターを今後の試験および訓練用に回せるはずであった。

1944年7月には月産15両に増えたが、度重なる空襲のため、8月には14両に落ちた。
MIAG社は繰り返し、労働力不足を訴えた。
これ以上の生産遅延を避けるために、300名の増員が約束された。
兵器局はまず、160名の人員を派遣し、彼らは1944年8月4日、作業に就いた。

続いて、160名から成る一団が送られてきた。
これらの人員は、16個の機甲猟兵補充大隊から、それぞれ10名が派遣されてきたのである。
これらの労働力を得て、ようやくMIAG社は、9月には21両のヤークトパンターを生産した。
だが、10月の爆撃により、再び生産台数は8両に落ちた。

陸軍総司令部も兵器局も、この生産状況をこのまま放置する訳にはいかず、MIAG社以外の2社にもヤークトパンターの生産を委託することになった。
MIAG社は、すでに1943年以来パンター中戦車を生産していたMNH社に対し、装甲車体80両分を供給した。
MNH社は、1944年11月には20両、12月には44両、1945年1月には30両のヤークトパンターを生産し、それ以後は再び、それまでに手掛けていた計画に復帰することになった。

それは、新顔の第3の企業の作業が円滑に滑り出し、高生産数を維持できるようになるまで、MNH社がその隙間を生める役割を果たすということであった。
新顔とは、ポツダム・ドレーヴィッツ所在のMBA社である。
同社はこの時点まで、およそ装甲車両なるものを生産したことが無かった。
ただ、この企業は戦車生産に十分な広さを有していた。

MBA社では、生産計画の習得過程を考慮して、1944年11月はヤークトパンター5両、12月には10両の生産に抑えることを求めた。
1945年度の計画台数は、次の通りであった。
すなわち、1月は20両、2月は30両、3月は45両、4月は60両、5月は80両、6月は90両、7月以降は月産100両である。

MNH社およびMBA社の支援を受けて、生産台数は、1944年11月には55両、12月には67両に伸びた。
そして、1945年1月には最高の72両となった。
MIAG社とMBA社が予定生産量をこなせなかったため、MNH社に対して、1945年6月まで引き続きヤークトパンターを生産するよう要請が出された。

状況上やむを得ず、機甲兵総監グデーリアンは1945年2月初旬、戦車生産のための緊急プログラムを作成しなければならなかった。
その場合には、まだわずかに残っている重要な装甲車両のための資金資材も投ずることになるはずであった。
ヤークトパンターの生産計画は、次のように定められた。

企業名 2月 3月 4月 5月 6月
MIAG社 40 45 60 60 60
MNH社 20 20 20 20 20
MBA社 10 20 20 20 20

1945年6月以降の計画月産台数は、100両であった。
しかし、連合軍に占領される以前の各社のヤークトパンター生産台数は、空襲、エネルギー不足、輸送能力の低下によって、1945年2月は42両、3月は52両、4月は34両に過ぎなかった。
毎月のヤークトパンター生産台数の推移は下表の通りで、1945年4月の生産終了までに合計で415両が完成している。

計画 陸軍兵器局
受領検査済み
MIAG社 MNH社 MBA社
1943年
10月
1 1 1
11月 5 1 1
12月 5 0 0
1944年
1月
15 5 5
2月 15 7 7
3月 15 8 8
4月 30 10 10
5月 35 10 10
6月 40 6 6
7月 55 15 15
8月 45 14 14
9月 40 21 21
10月 50 8 8
11月 45 55 35 20 0
12月 80 67 37 14 16
1945年
1月
90 72 35 35 2
2月 50 42 22 20 0
3月 60 52 32 13 7
4月 60 21 3 10 12
合計 415 270 112 37


●改良点

ヤークトパンター駆逐戦車は、他の車両と同様に、生産中に段階的に改良が加えられていった。
1年強の短い生産期間にも関わらず、その変更箇所は結構多い。
以下、生産中における変更点を順を追って挙げていく。
2両が製作された試作車は、その後の生産車と大差無かったが、それでも各部に変更が見られる。

試作1号車では、操縦手のペリスコープが2個装備されていたが、これが2号車になると、左側のペリスコープが廃止された。
開口部はそのまま残されているが、おそらく内側で塞がれているものと思われる。
また2号車では、ペリスコープにカバーが装着されていることも変更点として挙げられる。

さらにこの2号車では、主砲の防盾前端の絞込みが短く、正面から見ると、前端が1号車よりも面積がやや大きくなっているのも2号車のみの特徴である。
同様に履帯も、1号車と2号車では異なり、2号車では、原型のパンター中戦車で1943年9月の生産車から採用された、履帯表面に防滑用のモールドが施された新型履帯を用いている。

なお、試作1、2号車共に、戦闘室側面(右側2カ所、左側1カ所)と後面(2カ所)にピストル・ポートが設けられているが、生産車においては廃止された。
これは、防御力の向上を図ったものであるが、その背景には、近接防御兵器が開発されたことがあった。
もっとも、これは期待したほどには生産が順調に進まず、初期の生産車では、装備用の孔が開けられたものの、後日装備として、鋼板で孔を塞いだ状態で完成させた。

生産段階で装備が開始されたのは、1944年6月からであった。
生産車は、前述のように1944年1月から登場したが、全体のレイアウトは試作車と変わらず、試作2号車同様に、操縦手用ペリスコープは右側のみとされたが、当初、戦闘室の前面にはペリスコープ2基の孔が開口されており、左側の孔は、外側から15mm厚の鋼板で塞がれている。

また、車体リア・パネルに設けられているエンジン点検ハッチに、牽引ホールドが追加されたのも生産車の特徴である。
このホールドの装備により、点検ハッチの上に装着されていたジャッキは、排気管の間に立てる形で装着されたが、これは、パンター中戦車と同様であった。

機関室の上面は、パンターA型のものが流用されたが、前部のエア・インテーク・グリルは、前後の幅が狭いヤークトパンター独自のものが用いられている。
また、機関室の後部に設けられた冷却空気取り入れ用の開口部と、左側のアンテナ基部は鋼板で塞がれた。
1944年4月からの生産車では、主砲が、それまでの一体成型のものから、より生産が容易な2分割式のものに変更され、左側の排気管の左右には、冷却空気導入用のパイプが追加された。

しかし、主砲はストックがあったために、直ちに分割式のものに替わった訳ではなく、新旧双方が並行して使用されており、新型に切り替わったのは1944年11月からのことであった。
鋼板で塞がれていた機関室の吸気口とアンテナ基部は、この頃から開口部が無いものが用いられるようになり、リア・パネルのゲペックカステンは、それまでの、車体上面から支柱で吊っていた方式から、パンターG型と同様に、リア・パネルに設けられた差込口に装着する方式に改められた。

さらに、戦闘室左後面に工具収容箱が設けられたのも、この頃の生産車からであった。
1944年6月からの生産車は、ピルツ(きのこ)と呼ばれる組み立て式簡易クレーン取り付け具が戦闘室の上面に装着され、さらに防盾にも、吊り下げ用アダプターを装着するネジ込みが追加されている。
また、この頃の生産車から、近接防御兵器が生産時に装備されるようになった他、6月もしくは7月からの生産車では、4月に装備が始められた戦闘室後面の工具箱が廃止されている。

9月からの生産車では、同月9日に出されたツィメリット・コーティングの廃止通達を受けて、塗布が取り止められることになり、それまで内側で固定していた防盾基部は大型化され、上下それぞれ4本ずつのボルトで外側から固定する方式に改められた。
これは、変速機の交換を容易に行えるよう考慮したものと思われる。

しかし、その後の生産車でも、旧型の防盾基部の使用が続けられており、完全に新型防盾に切り替わったのは11月に入ってからといわれる。
1944年10月からの生産車では、前月に変更された新型防盾の防御力向上と、その取り付けボルトの破損を避けるために厚みを増し、下側に延長する形でさらに大型化が図られた。
この防盾基部を備えた車両を、後期生産車として分類する。

また、夜間に排気管が灼熱して、遠距離からでも発見されてしまうことへの対処として、鋼板のカバーが排気管に追加された。
さらに、従来の誘導輪は泥や雪などが詰まり易かったので、直径を650mmに増やし、走行中に泥等を排除できるようにリブの形状を改めている。

車体後部のショック・アブソーバーが廃止されたのも、この10月生産車からであった。
11月から12月にかけて生産された車両の一部は、戦闘室右上面に設けられていた吸気口を戦闘室前部中央に移している。
この頃になると、戦闘室前面に開口されていたペリスコープ用の孔は、最初から右側のもののみとなっている。

1944年12月からは、パンターA型の部品のストックが無くなったために、パンターG型の部品が用いられるようになり、機関室上面の空気取り入れ用グリルは、前後とも幅が狭いものに変わり、円形の排出グリルの直径もやや小型となった。
さらに、機関室の後部には装甲カバー付きのエア・インテークが新設され、一部の車両では、左側の排出グリルに暖房装置を装着しているが、これらは、いずれもパンターG型と共通のものである。

また、機関室点検ハッチの後方にハンマーを装着したが、これは、ヤークトパンター独自のものであった。
左の排気管も、パンターG型と同様に再び1本に戻されたが、翌45年3月の時点でも、左側排気管は、左右に冷却用のパイプを備える旧型を用いた車両も存在していた。
さらに、一部の車両では消炎式排気管を備えていたが、大半は、シンプルな排気管とカバーが用いられた。

1945年に入ってからはほとんど改修は無く、2月27日付で、それまで戦闘室左後面に装備していた工具箱の廃止が通達された程度だが、3月前後からの生産車では、車体側面に装着されていた工具を戦闘室と車体の後面に移して、小口径弾や弾片による破損を防いでいる。

戦闘室上面のピルツも装着位置が変更されているが、これらに関する通達命令はまだ確認されていない。
なお、1944年6月のノルマンディー戦において初陣を飾った第654重駆逐戦車大隊の所属車では、同年7月末前後から、独自に工具を戦闘室や車体の後面に移しており、これは、その後に渡って他の部隊との識別点となっている。


●構造

ヤークトパンター駆逐戦車は、機関系や足周り等は、パンター中戦車と同一となっている。
車内レイアウトは、前方に操縦手と無線手が位置し、無線手の後方には車長、操縦手の後ろに砲手が、そして最後尾に装填手がそれぞれ配されている。
ヤークトパンターは、内容積は小さくなかったが、巨大な71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3を搭載するために、見た目ほどはゆとりが無く、居住性は良好とはいい難いものがある。

最前部の操縦手と無線手は、大きく傾斜した戦闘室前面と中央に置かれた変速機のために、着座するとほとんど動けない状態となるし、砲手もまた、主砲に取り付けられた極めて簡易な座席に長時間着座しなければならない。
車長、装填手に至っては、座席自体が折り畳み式で、特に車長は、戦闘に際し、無線手の後方で立ったまま、視界が限定される旋回式ペリスコープと砲隊鏡を用いて指揮を執らなければならず、その大きなサイズとは裏腹に、作業環境は決して良好とはいえなかった。

傾斜装甲板を組み合わせて構成された戦闘室は、前面80mm、車体下部前面50mm、側面50mm、車体後面60mm、戦闘室後面40mm、上面25mmで、適度な傾斜が与えられているため、実質的な装甲厚はさらに大きいことになる。
車体前部中央にはZF社製のAK7-200変速機が配され、修理や交換等は防盾基部を外すことで行う。

この変速機を挟む形で、左側には操縦手が、右側には、機関銃手を兼ねる無線手が位置しているが、前面装甲板には大きな角度が与えられているため、着座するとほとんど身動きができない状態となる。
変速機の後方には砲座が設けられ、71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3が搭載されている。

この主砲は、クルップ社が開発した8.8cm対戦車砲PaK43を車載化したものであり、フェルディナント駆逐戦車やティーガーII重戦車で採用されたものと同系で、39式徹甲弾を用いて、初速1,000m/秒、射距離1,000mで189mm、2,000mで154mmの装甲板を貫徹でき、実質上、当時の全ての連合軍戦車を、その射程外から攻撃して前面装甲板を射抜くことが可能であった。

さらに、新型のタングステン弾芯を持った高速徹甲弾を使うと、初速1,130m/秒、射距離1,000mで245mm、2,000mで184mmの装甲板を貫徹可能であった。
また砲架には、金属パイプを介して砲手用の座席が取り付けられており、無線手の直後には車長が、砲手の後方には装填手がそれぞれ配されている。

主砲用の弾薬は、戦闘室左右の袖板の上に前後2カ所に分けられて設けられた弾薬ラックに収められ、各種弾薬合わせて60発を搭載したが、1945年2月の生産車から、内部レイアウトが一部変更されたため、58発に減っている。
弾薬重量は、弾種によってやや異なるが23kg前後で、全長は82.2cmとかなり大きく、装填手の苦労が偲ばれる。

戦闘室の上面には、フェルディナント駆逐戦車が先鞭をつけた、円弧状のスライド式照準機の装甲カバーが前部左側に備えられ、右側には、車長用旋回式ペリスコープと砲隊鏡用クラッペが装備されており、その後方に車長用ハッチが用意されている。

スライド式照準機の装甲カバーの後方には近接防御兵器が装備されているが、前述の通り、初期生産車では未装備であった。
車長用ハッチの後方には、装甲カバーが付いた吸気口が設けられ、中央後部にはベンチレーターが、後方左側には装填手用ハッチが備えられており、右側には旋回式のペリスコープが装備されている。
また戦闘室後面には、主砲交換にも用いる脱出ハッチが用意されている。

戦闘室と隔壁で仕切られた最後部の機関室には、マイバッハHL230P30 V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(700hp/3,000rpm)が配され、戦闘室の床下を通って、前方の変速機まで駆動軸が走っている。
ラジエーターは、エンジンを挟む形で前後に備えられ、その中間には前後のグリルから空気を導入し、ラジエーターの熱気を車外に排出する冷却ファンが備えられているが、この辺りのレイアウトはパンター中戦車と同じであった。

転輪は、ドイツの重量級戦車に共通するオーバーラップ式転輪配置が採られており、トーションバー・サスペンションは、1本の転輪アームに対して2本を装備する、いわゆるダブル・トーションバーが用いられている。
この配置は、接地圧を均等にし、射撃の際の振動を最小限とするもので、いかにもドイツらしい発想だが、交換や整備等の面では問題が残った。


●部隊配備

ヤークトパンター駆逐戦車は、1944年4月末から量産車の引き渡しが開始されたが、これに先立ち、1944年3月1日付のK.st.N1149c(戦時兵力証明)によりヤークトパンター駆逐戦車の中隊定数が、同K.st.N154aで大隊本部定数が定められた。

これによると、大隊本部にはヤークトパンター指揮車型3両が配備され、各中隊は、4両のヤークトパンター駆逐戦車を備える小隊3個から編成され、中隊本部には2両が割り当てられたので、各中隊の装備数は14両となる。
この中隊3個で大隊を編成するので、本部車両を合わせると大隊定数は45両となるが、この定数を満たした大隊はほとんど無かった。

ヤークトパンター駆逐戦車を装備する大隊として最初に選定されたのは、フェルディナント駆逐戦車を装備して1943年7月のクルスク戦に参戦した第654重駆逐戦車大隊で、同年8月にヤークトパンター駆逐戦車への改編命令が出され、同大隊は、残存車を第653重駆逐戦車大隊に引き渡してドイツに帰還した。
しかし、ドイツに到着しても、肝心のヤークトパンターはまだ形も無く、訓練用としてベルゲパンター8両を受領したのは1944年2月に入ってからのことであった。

そして、ヤークトパンターを同大隊に引き渡すべく貨車に載せたのは1944年4月28日で、しかも、その数は8両と、2個小隊分しかなかった。
6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸したことを受けて、6月11日には、第1、2中隊の出撃準備が整ったとヒトラーに報告された。

当初、大隊本部に3両、第1中隊には12両、第2中隊には13両の配備が予定されたが、実際には、この時点において同大隊が保有していたのは、ヤークトパンターが8両、ベルゲパンターが5両という始末で、とても戦力と呼べるものではなかった。
6月14日には、同大隊向けとして17両のヤークトパンターが貨車に載せられて発送されたが、この到着を待たずに、6月15日に第2中隊は、装備する8両のヤークトパンターと共にノルマンディー戦線へ向かって旅立った。

そして、6月27日から29日までは教導機甲師団に配備されたが、その後は直轄部隊として運用され、7月1日の時点では、発送された17両のヤークトパンターも無事戦線に到着し、25両を保有する運びとなった。
第2、3中隊は、この25両をもって主にイギリス軍と交戦し、車両を持たない第1中隊はメイイ・ル・カンに下がり、車両の到着を待ったが、第1中隊が出撃可能となったのは8月10日のことであった。

8月1日付で出された同大隊の報告書によると、稼働車両は8両で、13両は短期間の修理を行っており、3両は長期間の修理を受けているとある。
それまでの戦闘で失われた車両は、ヤークトパンター2両、ベルゲパンター1両で、11名を失ったと伝えられている。

それでも、7月31日には8両、8月14日にもさらに8両の補充が行われたが、ファレーズの包囲戦とそれに続く後退戦において、同大隊は17両のヤークトパンターを失い、セーヌ川を渡って後退した時点で、同大隊が装備するヤークトパンターは23両となった。
9月9日には、同大隊に対して本国への帰還命令が出され、グラフェンヴェア演習場に後退して再編成が行われた。

そして、10月14日に9両、10月23日に9両、11月15日に6両がそれぞれ補充され、さらに、ヴィルベルヴィントとメーベルヴァーゲンそれぞれ4両ずつの配備を受けている。
また、ベルゲパンターも4両配備され、大隊の定数を満たした同大隊は、11月18日に西部戦線に向かって鉄路輸送を開始し、11月20日から30日まで戦闘に投入された。

この際、敵戦車52両を撃破し、対戦車砲9門を破壊、加えて戦車9両の中破を報告している。
一方、同大隊の損害は、ヤークトパンター18両、ヴィルベルヴィント3両であった。
1944年9月11日付でヒトラーは、ヤークトパンター駆逐戦車と、IV号駆逐戦車もしくはIII号突撃砲を混成装備する大隊の試験的編成を命じた。

これは、45両のヤークトパンター駆逐戦車を定数とする大隊の保有を嫌ったことによるもので、この場合、混成大隊は、ヤークトパンター1個中隊、IV号駆逐戦車もしくはIII号突撃砲2個中隊で編成され、その最初の大隊として改編命令を受けたのが、マルダーIII対戦車自走砲を装備して東部戦線に展開したものの、全ての車両を失ってミーラウ演習場に帰還していた第559駆逐戦車大隊であり、続いて、同じくナースホルン対戦車自走砲を装備してイタリア戦線で戦っていた第525重駆逐戦車大隊が改編命令を受けたが、結局、これは実現しないまま終わった。

さらに、ナースホルンを装備していた第519、560、655各重駆逐戦車大隊にも改編命令が下され、こちらは改編が実施されている。
記録では、このヒトラーの命令が出る以前から、第559重駆逐戦車大隊に対する改編は開始されており、1944年5月18日には最初の5両を受領している。

そして8月25日には、ヤークトパンター11両とIII号突撃砲28両が引き渡され、9月初めには、さらに17両のヤークトパンターを受領しており、その数は33両と、通常の2個中隊定数よりも多かった。
同大隊は、西部戦線への投入が計画されたが、訓練中に多くの故障車を出し、10月4日の時点における報告では、ヤークトパンターの稼働車はわずかに3両、III号突撃砲も5両と、とても戦力と呼べる状況ではなかった。

この状態は12月になっても変わらず、30日付の報告では、稼働するヤークトパンター2両、整備中のもの2両という惨状だった。
この間、新たにヤークトパンター14両の補充が行われていたが、12月16日に始まるラインの守り作戦に同大隊が投入できたヤークトパンターはわずか5両にしか過ぎず、このうち1両を戦闘で失っている。

一方、第519重駆逐戦車大隊も同様の状況であり、1944年7月までに、装備するナースホルン全てをソ連軍との戦闘で失い、8月1日にミーラウ演習場で再編作業に入り、8月22日までにヤークトパンター17両、III号突撃砲28両を受領し、大隊の定数を満たして再編を完了した。

再編終了後、西部戦線に送られた同大隊であったが、戦闘における消耗や故障車等により、ラインの守り作戦開始直前の12月13日におけるヤークトパンター保有数は9両に減り、その稼働車はわずかに4両で、5両は整備状態にあった。

第560重駆逐戦車大隊は、ナースホルンを装備して東部戦線で戦い、1944年4月に本国に帰還して、5月26日付でヤークトパンター装備部隊に改編された部隊であるが、第1陣のヤークトパンター4両が引き渡されたのは10月25日のことで、12月6日までにさらに11両の配備を受け、加えてIV号戦車/70(A) 31両を受領して、大隊の定数を満たしている(しかも1両多い)。

12月3日より西部戦線に送られた同大隊は、12月8日に前線に到着し、ラインの守り作戦の発動を待ったが、作戦開始時における稼働数は11両と記録に残されている。
最後の第655重駆逐戦車大隊も、ナースホルンを装備していた部隊を改編したもので、1944年8月に第1、第2中隊の要員がミーラウ演習場に戻って、ヤークトパンターへの改編を待つことになる。

計画では、1個中隊分14両を配備する予定が立てられたが、ラインの守り作戦開始時までに装備することはできず、このため、11月25日に28両、12月7日に大隊本部用として3両のIV号戦車/70(V)がそれぞれ引き渡されて、ラインの守り作戦に投入された。

資料により数字は異なるが、結局、ラインの守り作戦に用意された重駆逐戦車大隊5個が装備するヤークトパンターの総数は52両前後、このうち稼働車は17両前後で、戦力とはなり得ず、各個撃破されていった。
一方、東部戦線においては、重駆逐戦車大隊としては唯一、第563重駆逐戦車大隊が、1944年11月25日に、マルダーIIもしくはIII対戦車自走砲からヤークトパンターへ改編されたが、実際に引き渡された車両数は不明である。

これ以外に東部戦線では、機甲師団や武装親衛隊の機甲師団に対してヤークトパンターの配備が行われている。
また、西部戦線においては、独立した重駆逐戦車大隊が投入されたので、機甲師団等でヤークトパンターの装備例は、教導機甲師団と第2機甲師団のみにとどまった。


<ヤークトパンター駆逐戦車>

全長:    9.87m
車体長:   6.87m
全幅:    3.27m
全高:    2.715m
全備重量: 45.5t
乗員:    5名
エンジン:  マイバッハHL230P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン
最大出力: 700hp/3,000rpm
最大速度: 55km/h
航続距離: 250km
武装:    71口径8.8cm対戦車砲PaK43/3×1 (60発)
        7.92mm機関銃MG34×1 (600発)
装甲厚:   16〜80mm


<参考文献>

・「パンター戦車と派生型 1942〜1945」 ヒラリー・ドイル/トム・イェンツ 共著  大日本絵画
・「ジャーマン タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著  大日本絵画
・「パンター戦車」 W.J.シュピールベルガー 著  大日本絵画
・「重駆逐戦車」 W.J.シュピールベルガー 著  大日本絵画
・「PANZER2001年5月号 ヤークトパンター駆逐戦車」 後藤仁 著  アルゴノート社
・「ピクトリアル ドイツ軍自走砲」  アルゴノート社
・「ピクトリアル パンター戦車」  アルゴノート社
・「世界の軍用車両(1) 装軌式自走砲:1917〜1945」  デルタ出版
・「戦車メカニズム図鑑」 上田信 著  グランプリ出版
・「異形戦車ものしり大百科」 斎木伸生 著  光人社
・「図解・ドイツ装甲師団」 高貫布士 著  並木書房
・「戦車名鑑 1939〜45」  コーエー


兵器諸元(ヤークトパンター駆逐戦車 初期型)
兵器諸元(ヤークトパンター駆逐戦車 後期型)


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