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●開発 IV号a型10.5cm対戦車自走砲は、IV号中戦車の車体をベースに、52口径10.5cm野戦加農砲K18を搭載する自走砲として開発されたもので、その開発目的ははっきりしないが、トーチカ(コンクリート製掩蔽壕)攻撃用に開発されたものであると伝えられている。 本車は、IV号中戦車の車体をベースに開発された最初の自走砲であり、その形態は、後に開発されたフンメル自走榴弾砲やナースホルン対戦車自走砲などに影響を与えている。 IV号a型対戦車自走砲のベース車体として用いられたIV号中戦車は、当時本格的な量産が開始されたばかりの新鋭中戦車であり、それを自走砲に転用するのは少々贅沢な感じがするが、52口径という長砲身の10.5cm砲を搭載できる車体が他に無かったため、これは仕方なかった。 IV号a型対戦車自走砲の開発は1941年初めからエッセンのクルップ社で開始され、1941年3月までに2両の試作車が完成し、1941年3月31日にヒトラーに提示された。 1941年5月26日に開かれた総統会議において、本車は当初の開発目的であるトーチカ攻略から、対戦車戦闘に運用方法が変更されることになった。 当時、ドイツ軍はソ連軍のT-34中戦車やKV-1重戦車の存在を知らなかったため、本車の仮想敵は近未来に遭遇するであろう米英軍の重戦車とされていた。 IV号a型対戦車自走砲は、1942年春から量産を行う予定が立てられたが、結局キャンセルされてしまい、試作車2両が製作されたのみに終わった。 本車の量産がキャンセルされた理由はよく分かっていないが、一説には、主砲の10.5cm加農砲K18が分離薬莢式で発射速度が遅い点が嫌われたのと、砲と車体のバランスが悪く、機動性に問題があった点、北アフリカ戦線などで活躍した8.8cm高射砲の方が、対戦車砲としては優れていると判断された点などが挙げられている。 本車は、IV号中戦車の車体をベースとした最初の自走砲であるため、「10cmK18搭載IV号a型装甲自走車台」という正式名称が与えられている。 また、本車には別に「デッカー・マックス(太っちょマックス)」という愛称があったことが知られているが、これは正式な名称ではない。 IV号a型対戦車自走砲の諸元はあまり多く分かっていないが、戦闘重量25t、全長7.52m、全幅2.84m、全高3.25m、路上最大速度40km/h、路上航続距離200km、乗員5名であったとされている。 2両製作されたIV号a型対戦車自走砲の試作車は、共に第3機甲師団傘下の(独立)第521戦車駆逐大隊第3中隊に配備され、1941年夏に東部戦線へ投入された。 当時のドイツ陸軍機甲部隊の主力であったIII号中戦車が搭載する5cm戦車砲や、IV号中戦車が搭載する短砲身7.5cm戦車砲では、高い防御力を誇るソ連陸軍のT-34中戦車やKV-1重戦車には歯が立たなかったが、IV号a型対戦車自走砲が搭載する長砲身の10.5cm加農砲は、これらの戦車を遠距離から撃破することが可能で、本車はT-34中戦車数両を撃破するなどそれなりに活躍したようである。 しかし、IV号a型対戦車自走砲の内の1両は戦闘室に砲撃を受けて車内弾薬が誘爆し、粉々に吹き飛んでしまった。 残りの1両も、1941年10月にドイツ本国へ修理のために返送されている。 その後、修理を終えたIV号a型対戦車自走砲の最後の1両は再び東部戦線に戻されたが、T-34中戦車によって撃破されたと伝えられている。 |
●構造 IV号a型対戦車自走砲の車体はIV号中戦車D/E型をベースにしており、エンジンや変速・操向装置といった駆動/伝達系も同じものが使用されていた。 車体は自走砲用に延長されてはおらず、走行装置もIV号中戦車のものがそのまま使用されていた。 残された写真によると、走行装置は基本的にD型のものであるが、起動輪はE型のものが用いられている。 なお、戦車型では車体左側面の第2、第3上部支持輪の後方にそれぞれ燃料注入口が設けられていたが、本車では第3上部支持輪後方の燃料注入口が廃止されており、代わりに、車体右側面の第2上部支持輪の後方に新たに燃料注入口が設けられていた。 自走砲化にあたって、IV号中戦車の上部構造は撤去され、車体中央部から後部にかけてオープン・トップ式の固定戦闘室が新たに設けられており、車体中央部に砲架を設けて52口径10.5cm加農砲K18を限定旋回式に搭載していた。 砲の旋回角は左右各8度ずつで、俯仰角は−15〜+10度となっていた。 戦闘室の左右側面は、内部容積を稼ぐためにフェンダ側に張り出していたが、車体とは溶接されていた。 戦闘室の装甲厚は、前面が30mm、側/後面が20mm、上面が12mmとなっていた。 戦車型では車体後部に配置されていた動力装置は、自走砲化にあたって車体中央部の主砲の下側に移されたらしいが、詳細は不明である。 砲尾の下側には大きな箱型のカバーが設けられており、この中にエンジンが収められていたものと思われる。 このカバーは車体後部にまで延びており、後部外側に取り付けられた90度上に向けた蓋付きのダクトに接続されていた。 左右のフェンダは、戦車型と同様に車体側面全体に取り付けられていたが、前部のマッドガードは最初から装備していなかった。 エンジン用排気管は、後に登場するナースホルン対戦車自走砲のように車体側面中央部から外に出されていたが、その位置はフェンダの上で、しかも車体の右側に1つしかなかった。 排気管は、右側フェンダの後方に取り付けられた排気マフラーに接続されていた。 戦闘室内の砲架左右の壁にはラジエイタ用の通気ダクトが取り付けられており、開口部グリルは戦闘室の上面にあった。 ナースホルン対戦車自走砲と同じく、左側が吸気用で右側が排気用だったのかは定かではない。 車体後面の装甲板は戦闘室と一体構造になっており、中央に前述したエンジン用通気ダクトがあり、ダクトの左右には外開き式の角型の乗降用ドアが設けられていた。 それ以外の装備は、ほぼIV号中戦車に準じていた。 車体上面前部の装甲板は大きく延長されており、ブレーキ点検用ハッチはIV号中戦車E型と同様に、装甲板と面一構造になっていた。 戦闘室前方の車体上面には左右に四角い装甲ボックスが設けられており、左側のボックスは操縦室、右側のボックスは操縦室のダミーで、ダミー・ボックスの方は雑具箱として使用されていたらしい。 操縦室ボックスの上面には後ろ開き式の四角い操縦手用ハッチが設けられており、前面には装甲ヴィジョン・ヴァイザと双眼式のペリスコープ孔が装備されていた。 また、左側面にはヴィジョン・ブロックがあり、右側面には小さな円形のハッチがあった。 反対側のダミー・ボックスには、ヴィジョン・ヴァイザ等は設けられていなかった。 戦闘室後部の上面は傾斜の付いた天井がわずかにあり、そこにほぼ横幅いっぱいに円弧状断面のラックが取り付けられていた。 このラックの下には、砲身のクリーニング用ロッドが装備されていた。 また、車体後面装甲板のエンジン用通気ダクトの後ろには、予備転輪1組を装着できるラックが装備されていた。 戦闘室外側の左側面にはスコップと履帯連結工具が装備されており、右側面には上方に牽引用ワイアロープが取り付けられていた。 戦闘室後面装甲板の内側上部には、砲弾を砲尾に押し込むためのラマーが装備されており、その下には信号弾ピストルや信号弾ボックス、それに手榴弾(合計6本)ラック等があった。 戦闘室左右側面の、フェンダ側に張り出しているバスル部の内側には、最後部に弾頭用収納ボックスがあり、その前に薬莢収納ボックス(ラック)があった。 これは左右対称配置で、弾頭は計12発、薬莢は計16発が収納できた。 また、戦闘室よりも前の車体右側面に薬莢8発分のラックが確認できるので、薬莢の搭載数は計24発となる。 既成のデータでは、IV号a型対戦車自走砲には約25発分の弾頭と薬莢が搭載されていたことになっているが、弾頭の収納ボックスは他に見当たらない。 戦闘室内の前方には、10.5cm加農砲K18の砲架を挟んで左側に砲手席、右側に車長席が設けられていた。 座席の前方には照準機やペリスコープのケースが置かれており、車内装備として7.92mm機関銃MG34が1挺搭載されていたとされているが、その収納部の位置は判然としていない。 戦闘室内の座席よりも前の部分には天井があり、その左右には開口部があって、左側は照準機用(前/左側面に跳弾板がある)で、右側は双眼式の観測ペリスコープ用(円形ハッチによる)であった。 通常の砲隊双眼鏡用の支持架もあり、これは右側ラジエイタ・ダクト後部の側壁に装備されていた。 本車はFu.5無線機を搭載していたとされているが、その搭載位置は不明である。 ただし、アンテナの基部は戦闘室の右側上部前方に取り付けられていたので、無線機は戦闘室内の右側前方にあった可能性が高いと思われる。 車体上部前面には当初ノテックライトしかなかったが、戦場写真ではトラヴェリング・クランプが追加装備されているのが確認できる。 左側フェンダの上には、前からボックス型ライト、2リンク分の予備履板、ホーン、消火器、履帯張度調整装置用スパナ、オノ、ワイアカッター、大小カナテコ、メガネレンチ、間隔表示灯が順に装備されていた。 右側フェンダの上には、前からボックス型ライト、2リンク分の予備履板、ジャッキ台、ジャッキ、排気マフラーが順に装備されていた。 IV号a型対戦車自走砲の主砲の原型となった10.5cm野戦加農砲K18は、第1次世界大戦でドイツ陸軍が使用した10.5cm野戦加農砲K17に代わる新型砲として、1926年〜30年にかけて開発されたものである。 開発は当初、クルップ社とラインメタル・ボルズィク社の競作とされたが、結局双方の合作とされ、砲部はラインメタル社、砲架や脚といった搬送部分は、15cm重榴弾砲sFH18と同一のクルップ社のものが採用された。 10.5cm野戦加農砲K18の生産は、ベルリン・シュパンダウにあるシュプレー製作所で行われ、最初の配備は1933〜34年にかけて行われている。 第2次世界大戦の初期には野砲として使用されたが、10cmクラスという位置付けが次第に中途半端な存在となり、1942年以降は沿岸砲に転用され、一部はブルガリア軍に売却された。 この砲はジャケット付きの単肉砲身で、砲尾は横型スライドブロック式の鎖栓になっていた。 砲架はV型開脚式で、左右に金属プレス製ホイールにソリッドゴムのタイアが装備されていた。 搬送時は、脚後部に2輪式のリンバーを取り付け、馬または車両によって牽引した。 砲弾は分離薬莢式で、弾頭は榴弾の場合Gr.19を使用したが、これにはKPS型(銅バンド付き)とFES型(鉄バンド付き)があった。 徹甲弾もPz.Gr. rot(レッドスモーク付き)がKPSとFESで用意されており、この他、Gr.38Nbという発煙弾も使用できた。 薬莢は、飛距離に応じて装薬量の違うものが使用された。 砲の性能は、弾頭重量15.14kgのGr.19榴弾を使用した場合、近距離射撃では砲口初速550m/秒で最大射程12,725m、中距離射撃では同690m/秒で15,750m、遠距離射撃では同835m/秒で19,075mであった。 弾頭重量15.56kgのPz.Gr. rot徹甲弾を使用した場合は、中距離射撃では同682m/秒で13,850m、遠距離射撃では同827m/秒で16,000mであった。 徹甲弾を使用した場合、射距離100mで164mm、同2,000mでも109mmの均質圧延装甲板(傾斜角0度)を貫徹することが可能であった。 IV号a型対戦車自走砲に搭載された10.5cm加農砲K18は、基本的に野戦型と同じであるが、車載にあたって駐退、復座、平衡機等が変更されたために砲尾のディテールも変化しており、揺架も野戦型とは違っている。 また、砲身先端には二重作動式の大型の砲口制退機が新たに取り付けられた。 照準機は、野戦型ではパノラマ式のRblf.32あたりが使用されたが、自走砲用にはペリスコープ式直接照準機(Sfl.ZF.1a)が装備された。 砲の性能は基本的に野戦型と同じだが、野戦型が+45度まで仰角を取れたのに対し、自走砲搭載型では仰角が+10度までに限定されたため、最大射程は野戦型より短かかったのは確実である。 |
<IV号a型10.5cm対戦車自走砲> 全長: 7.52m 全幅: 2.84m 全高: 3.25m 全備重量: 25.0t 乗員: 5名 エンジン: マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 最大出力: 300hp/3,000rpm 最大速度: 40km/h 航続距離: 200km 武装: 52口径10.5cm加農砲K18×1 (25発) 7.92mm機関銃MG34×1 装甲厚: 10〜30mm |
<参考文献> ・「グランドパワー2000年5月号 ドイツ重対戦車自走砲の開発/構造/戦歴」 佐藤光一 著 デルタ出版 ・「世界の軍用車両(1) 装軌式自走砲:1917〜1945」 デルタ出版 ・「第2次大戦ドイツ戦闘兵器カタログ Vol.1 AFV:1939〜43」 後藤仁 著 ガリレオ出版 ・「第2次大戦 ドイツ試作軍用車両」 ガリレオ出版 ・「ジャーマン タンクス」 ピーター・チェンバレン/ヒラリー・ドイル 共著 大日本絵画 ・「PANZER1999年7月号 ドイツ陸軍の重砲」 水野靖夫 著 アルゴノート社 ・「ピクトリアル 第2次大戦ドイツ自走砲」 アルゴノート社 ・「ピクトリアル IV号戦車シリーズ」 アルゴノート社 ・「ピクトリアル ドイツ軍自走砲」 アルゴノート社 ・「ビジュアルガイド WWII戦車(2) 東部戦線」 川畑英毅 著 コーエー ・「異形戦車ものしり大百科」 斎木伸生 著 光人社 |